明治10年にエドワード・S・モースによって「大森貝塚」が発見されてまもなくの明治18年、生物学者の白井光太郎によって「池袋貝塚」は発見されました。
(前略)予が昨年(明治18年)4月26日近郊池袋村に植物を採取せるの際同村氷川社の背後に於て一の貝塚を発見し墟中に於て土器、石斧と共に取得せし所のものに係る(後略)
その後、多数の研究者たちによって着目されることとなりますが、明治35年に古谷清が「みみづく形土偶」の頭部を採取し紹介しました。土偶は縄文時代固有のものです。しかし、明治時代は日本の考古学の草創期であったため、その時代の遺物は散逸し、今は見ることが出来ません。
大正年間、池袋貝塚付近に住む稲垣喜平氏義松氏親子は畑の耕作中など折にふれて遺物を発見し採集しました。その時に採集された物は、縄文時代後期および晩期の土器、石器、石器時代曲玉、丸玉などです。
昭和50年には、池袋氷川神社の境内が旧地形を比較的よく残しているということで境内の北東の一部で試掘調査がおこなわれました。出土した遺物は、縄文土器の破片7個、石器1個でしたが、縄文時代後・晩期の遺跡の一部であることが示されました。
池袋氷川神社の周辺は、ほかにも貝塚がいくつか発見されていて、今から3500年前には集落があり古代の人々の生活が営まれていたことがわかります。当社の創建は定かではありませんが、もしかするとそういう集落の中に神さまに祈りを捧げる特別な場所ができ、今の氷川神社の歴史につながるのかもしれません。
(参考文献;『豊島区史 通史編一』豊島区史編纂委員会編纂 昭和56年)
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